甲南大学文化会ユースホステリングクラブ
 Y.H.M.とは"Youth Hostel Movement"の略称で、日本語では
ユースホステル運動(以下YHMと略記)と訳されます。
YHMは1909年(明治42年)にドイツの小学校教師リヒアルト・シルマン
(以下シルマンと略記)によって創案された青少年の成長を育む教育的な運動です。

 さて、YHM誕生の話はシルマンの子供時代から始まります。
シルマンは1984年5月15日に東プロシアのグルネンフェルトで生まれました。
彼の父は小学校の教師であるとともに、わずかの自作農地を持ち、また牛や
豚や鶏を飼うという兼業農家でした。幼い頃のシルマンは家畜の世話をしたり
森の中で村の子と遊んだり、父の学校で学んだりして素朴な生活をしながら
たくましい少年に育っていきました。

 17歳になるとシルマンはケーニスベルグの予備師範学校に入学しました。
当時のドイツは権威主義に固められており、この学校でも自由な発言を禁じられ
規則にしばられ極度の禁欲と教師への絶対服従が強いられるという厳格なものでした。
このように味気ない中でも、ただ地理の授業だけが彼を励ましました。
地理教師フィッシーの授業は、彼自身の旅行体験を元に進められ、また、時には
徒歩旅行も行われました。この徒歩旅行に感銘を受けたシルマンは
ワンダーフォーゲルをするようになり、休日には必ずといっていい程自然の中に
飛び込んでいきました。

 1895年シルマンは家庭教師をしながら教員試験に合格し、マスリアの小学校に
ドイツ語教師として赴任しました。そこで彼は自身の少年時代と青年時代の体験から
子供達を大自然の中に連れ出し、これを「移動教室」と名付け、無言の教育者である
自然から、学問と喜びを共に学びとらせました。
彼はどんな苦難をも乗り越え、この「移動教室」を続けていきました。
時には校長と意見の衝突をし、移転を申し出たこともありました。

 そして1909年、彼はいつものように生徒を引率し、ライン川沿いを徒歩旅行
していると、その途中、一行は激しい風雨に見舞われ、ある小学校で一泊すること
になりました。
この夜、シルマンは学校を利用した徒歩旅行者のための宿泊施設を各地に作ったら
どうかと考えました。
 
 この日(1909年8月26日)が世界のYHMの発祥の日とされ、記念を祝して
シルマンデーと呼ばれています。
この後YHMは世界中に広がっていく国際運動になっていくのです。

 1910年シルマンは小学生用のホステル試案を発表し、始めは
多くの反対を受けましたが、同年6月に有力紙ケルンに彼の仕事が載ると、各地
から多くの支援を受け、彼は自分のネッテ小学校を「小学生用ホステル」に
仕立てることができました。
ホステルを作ったのはシルマンが最初ではなく、25年前の1885年キドレロッテと
言う人が旅をする学生のためにホステルを建設していました。しかしこれは数も
少なく女子用の施設が少ないなどの不備な点も多く、対象が限られてくるなど
問題点が多くありました。
しかしシルマンがキドェロッテから多くの影響を受けたのは確かなことです。

 シルマンは、彼の属していた「北部ライン山岳協会」でウィルヘルム・ミュンカー
と知り合いました。この出会いはYHMにとって歴史的な出来事とも言えるものでした。
この後ミュンカーは生涯シルマンの影に隠れてシルマンと共にYHMを作り上げていく
ことになります。ミュンカーが居なければYHMは成功しなかったでしょう。

 1912年になると、シルマンは各地の小学校にホステルとしての施設を作ることに
成功しました。
これは山岳協会から1000マルクの援助を受けることができたからでした。

 シルマンは機会があるごとにホステルの必要性を説いて、支持と協力を求めました。
そのお陰で教師、スポーツ関係者、学者、そして軍人からも多くの賛同と協力を受けて
ついに年間3万マルクの援助金を受けるようになりました。ネッテ小学校のホステルは
アルテナ城に移り、世界初の常設ホステルとなりました。

   そして1919年にドイツユースホステル中央委員会が結成されて、シルマンは
会長に、ミュンカーは名誉理事に就任しました。

 YHMは、1920年にはヨーロッパ諸国に広がり、各国で協会が誕生しました。
しかしYHMは二度の対戦で大きな影響を受けました。特に第二次世界大戦で
ドイツのホステルはナチスの手に落ち、シルマンもすべての役職から追放されて
しまいました。

 1946年7月、戦後初めての国際会議がスコットランドで開かれました。
当時、国際会議はナチスに恨みのあるお陰で、ドイツを除名していましたが
シルマンとミュンカーは、アメリカのユースホステル協会のモンロースミスの
お陰でオブサーバーとして参加することができました。
 
 1951年頃からYHMはアジアにも広がり、世界的運動となっていきました。
そして現在のYHMは62ヶ国に広・ェっていて、ユースホステルの数は約5500で
これを利用する宿泊延人数員は1976年度で674万余名にものぼっています。

 ちなみに日本におけるYHMの広がりは1951年2月に日本青年団協会の事務局長
であった横山祐吉氏が青年達を引率しアメリカの教育視察に出かけたとき
アメリカユースホステル協会から思いもよらぬ歓待を受けることから始まります。
なぜ歓待を受けたのかというと横山氏の差し出した名刺の日本青年館の英訳が
Japan Youth Hostelとなっていたからでした。これを知った横山氏は当時の
アメリカ協会の会長ロックフェラーV世に日本に帰ったらこのYHMを起こす事を
約束して多くのことを学びました。
このことから一枚の名刺が日本へYHMを導いたと言えるでしょう。

 横山氏は帰国するとワンダーフォーゲル関係者を中心に東奔西走し、10月には
日本ユースホステル協会の設立総会を開催しました。第一回ホステリングは
11月に山中湖で、第二回を1952年に伊豆長岡町の家YHで初代会長長下中弥三郎氏
を交えて楽しく行われました。